村井崇裕
国際マッチ直前インタビュー
地道な努力と感謝の想いが
夢へと繋がる強い気持ちに
photo:King Chang
interview & text:King Chang
edit:Y-Jet
1987年京都生まれ。日本キックボクシング連盟(NKB)ミドル級チャンピオン。京都野口キックボクシングジム所属。
一度は違う道を歩むものの、「キックボクシングでもっと上を目指したい」という夢を諦めきれず再びリングへ。過酷な練習を地道に繰り返し、2013年10月、NKBの第5代ミドル級王者の座についた。お世話になった人々への感謝の気持ちを常に忘れず、さらなる高見を目指し続けている。
▶︎村井崇裕 公式ブログ
▶︎京都野口キックボクシングジム
キックボクシングを始めたきっかけは?
小学校のときから高校卒業するまでは野球をやってました。大学では特にスポーツはしていなかったんですけど、当時は格闘技ブームで大晦日にテレビでよく見てたこともあり、興味を持つようになったんです。運動不足解消のため、割と気軽な気持ちで始めてみようかなって思いました。
それでキックボクシングのジムへ入会したんですか?
いえ、最初は総合格闘技のジムに入会したんです。当時は打撃主体の「K-1」と、寝技や組技、打撃など何でもありの「PRIDE」といった総合格闘技が人気がありました。僕は、関節技とか絞め技ができる寝技をしてみたかったので、総合格闘技のジムに入会したんです。
総合格闘技は、面白かったですね。アマチュアの試合にも出場できるようになって、ワンデートーナメントの新人戦で3戦連続KO勝ちで優勝もしました。“神の子デビュー”とか言われてはやされました(笑)。
鮮烈なアマチュアデビューをされたのに、なぜ総合格闘技のプロを目指そうとしなかったんですか?
もちろんプロを目指そうと考えてましたけど、その後がパッとしなかったんです…。西日本とか全日本の大会にも出たんですけど、全然勝てなかったんですよ。投げられたり関節技を極められたりして負けることが多かったですね。結局デビュー戦の3試合も、全部打撃で勝ってるので「自分は寝技、組技の総合格闘技には向いてないのでは…」と思うようになったんです。それでキックボクシングの「京都野口ジム」の門を叩きました。
打撃主体のキックボクシングはどうでしたか?
当初は、「ちょっと体を動かせたら」ぐらいの気持ちだったんです。だけど、会長の指導はすごく厳しくてキツかったですね。すごいキツいんですけど、充実感というか、トレーニングしてて気持ちがいいんですよ。やっぱり自分には総合格闘技より、打撃主体のキックボクシングの方が合っているんだと思いました。
プロデビュー戦をいきなりKO勝ちで飾られましたが…
最初は出場する気はなかったんですけど、会長に半ば強引に出さされたというか…。大学卒業を控えていて、就職先も決まっていたんで、もうキックボクシングはできないだろうと思ってましたね。
本気でプロを目指してる方には失礼かと思いますが、1試合ぐらい出てみようという軽い気持ちでした。
キックボクシングへの未練はなかったのですか?
ありました。大学卒業と同時にジムを退会して、大手石油関連会社の仙台支社に赴任したんですが、1年で辞めました。「もっと上を目指したい、強くなりたい」っていう想いが大きくなってたんですね。
会社の人たちに申し訳ない気持ちはもちろんありましたけど、だからこそ必ずチャンピオンになってやろうと思いました。そしてキックボクサーとしてカムバックするべく、再び京都の地へ戻ったんです。
残念ながらKO負けだった復帰戦。敗戦を乗り越え、その後の連勝劇に繋がる“折れない強い気持ち”はどこからきているのでしょうか?
逃げ出したい気持ちや、辞めたいと思うことなんて誰にでもあると思うんです。僕の場合は、ここで諦めてしまったら、辞めた会社の人たちにも失礼ですし、今まで応援してサポートしてくれた方々にも申し訳ないという気持ちがありました。
また、ある出来事が僕の人生観を大きく変えました。それは、退職のあいさつに回っていたときに、宮城県石巻市の取引先で遭遇した東日本大震災です。目の前に津波がやってきて、みるみるうちに足元に水が流れ込んできたんです。営業車は流されてしまい、急いで2階へ非難して何とか助かりましたが、知り合いも含めて多くの方が被災した現状を目の当たりにしました。まだまだ過酷な環境で必死に暮らしている方々がおられる中で、自分は難を逃れこうしてキックボクシングをさせてもらえていることが、どれだけありがたいかを思い知らされました。ちょっとのことで弱音を吐いて、諦めたら絶対ダメだって思いましたね。その諦めない気持ちというものが、キックボクサーとしてだけではなく、一人の人間として深く刻まれた経験でもありました。…Read More