漫画家

ゆでたまご 嶋田隆司

好きであり続けることの
延長線上に〝夢〟がある

キン肉マン
2014 1/11 UP
photo:King Chang
interview & text:King Chang
edit:Y-Jet & Crazy-J

漫画家ユニット「ゆでたまご」の原作担当。
1960年10月28日生まれ。大阪市西淀川区出身。
緻密に計算されたストーリー展開と、個性溢れるキャラクターで、デビューから30年以上が経つ今なお、ファンを魅了し続けている。キャラクター原案のデザインも行う。


まずは、漫画家を目指そうとしたきっかけを教えてください。

 小さい時から絵を描くのが好きでした。小学生の時は、答案用紙の裏に絵を描いて、自分で勝手にストーリーを作ったりしてました。下手でしたけど…。休み時間に皆集めて、見せたりなんかして。実はそれが『キン肉マン』やったんです。
 ある時、漫画雑誌に新人漫画賞募集っていうのが載ってて、入選作品が掲載されてたんです。高山よしさとさんの『速球屋』という野球漫画でした。しばらくして、その漫画が新連載として発表されたんです。「あっ!漫画家になるには、頑張って新人募集みたいなのに応募すればいいのか!」って思いましたね。
 それからは答案用紙の裏に落書きみたいに描くんじゃなくて、大学ノートを買ってきて枠線引いて漫画を描くようになったんです。まだその時は漠然と、ただ「漫画家になりたいな~」と思ってただけですけど。

作画担当の中井先生との出会いは?

 小学4年生の時に相棒の中井義則が、僕と一緒の団地に引っ越して来るんです。僕らは同じ階で、通学のバスも一緒やったんですが、学校の行き帰りに自分の描いた漫画を、彼に見せたりしてました。
 当時彼は、漫画というものをほとんど読んだことがなかったらしく、僕の大学ノートに描いた漫画を見て、「これは面白い!」と言って彼も描き始めたんです(笑)。僕の真似してキン肉マンを描いたりして、「盗作やないか!!」って、隣の彼のクラスに乗り込んで行ったのが、コンビを組むきっかけです。
 あの頃に『まんが道』っていう漫画があったんですよ。藤子不二雄さんが『チャンピオン』に連載してた漫画です。それ見て「二人で合作するのもいいなあ」と、中学生くらいから合作するようになりました。それでもまだ、漫画賞っていうのに応募したことがなかったです。

初めて漫画賞に入賞した時の思い出は?

 中学2年生の時、新聞に近鉄漫画賞の広告が掲載されているのを見つけました。近鉄百貨店の一角に入選者の作品が並ぶだけでなく、水島新司先生や里中満智子先生、手塚治虫先生のサイン会も開かれてました。
 僕らは『ラーメン屋のトンやん』っていう作品を描きまして、なんと入選しました。自分たちの作品が展示されてるんで、夏休みの間、中井君と一緒に毎日近鉄百貨店に行きました。
 プロの先生の生原稿も展示されてて、それと一緒に自分たちの作品が並んでるんですけど、やっぱり見劣りするんですよね。全然プロは違うな~って。でも、そうやって入選したことで可能性みたいなのを感じて、それで高校生になってから投稿するようになったんです。
 
ゆでたまご インタビュー

キン肉マンのデビュー秘話を教えてください。

 中井君も僕も母子家庭だったので、高校卒業したら、どこかに就職しないといけなかったんです。だから何とか卒業までに、漫画家になろうと必死でした。
 その頃、『週刊少年ジャンプ』が一番売れてたんで、どうせ応募するんやったら「『週刊少年ジャンプ』で手塚賞か赤塚賞を取ろう!」と言うて両方送りました。それまで『週刊少年マガジン』の漫画賞とかに応募してたんですが、かすりもしなかったんですよね…。
『週刊少年ジャンプ』に応募して数日後、中野さんっていう集英社の編集者から電話が掛かってきました。その編集者が「アデランスの中野さん」のモデルになったんですけど。「今回は選外だったけど、君たちはなかなかギャグのセンスがある」と言われ、「ギャグ漫画を描いた方がいい!」とアドバイスを頂いたんです。それやったら、僕と中井君がコンビを組むきっかけになった「『キン肉マン』を描こうか!』」ってなりました。さっそく描き上げて、『週刊少年ジャンプ』の赤塚賞に応募したんです。今まで応募してたどの作品より、「これは手ごたえあるな~」って感じはしてましたね。
 後日、中野さんから電話があって「面白かったね。多分、何か賞取ると思うよ」って言われたんですよ。そしたら何と、準入選やったんです!僕らは、授賞式の為に東京まで行きました。入選作はなかったんで、準入選の僕らがトップだったんです。
 準入選ですから、読み切りとして当然載るわけですよ。その掲載号の『週刊少年ジャンプ』を、2人で10冊くらい買いました。印刷された紙面を見た時は「すごい!」って感動しましたね。
『ジャンプ』のアンケートで、僕らの漫画が結構評判良くて、すぐ連載始めようってなりました。その時、高校3年生の冬でしたから、就職はある程度決まってたんです。僕がカーテンレールの会社で、中井君がデザイン会社。
「どうしようかな…」って思ってたら、中野さんと当時編集長だった西村繁男さんが、わざわざ大阪まで親を説得に来てくれたんですよ。もちろん親は反対しましたけど。でも西村さんが「漫画が続かなかったら就職の世話をする!」って言ってくれて、何とか許してもらいました。晴れて、翌1979年5月に『キン肉マン』が連載開始となりました。

夢を追いかける中で、目標にしていた漫画家は?

 特にいなかったですね。好きな漫画はありましたけど。ちばてつや先生とか川崎のぼる先生、梶原一騎先生の作品っていうのは大好きでしたね。
 ただ僕は、ギャグ漫画を描きたかったので。誰にも描けないようなオリジナリティーがあるものをやりたかったです。

夢が叶い漫画家デビューした当初の、理想の漫画家像をお聞かせください。

 小学生の時もそうでしたけど、自分が描いた漫画をクラスの皆に見せるんですよね。その評価を聞くのがすごく楽しかったんで。だから漫画家になってお金を儲けるとか、有名になるとかっていうのは全然なかったですね。とにかく印刷されたいっていうのはありました。
 ずっとその延長できてます。原稿料はそんなに多くなかったです。デビューしたての頃は、二人で20万円しかなかったですからね。就職してたらもうちょい貰えたのかな?まあ、西村さんが就職世話してくれるって言うてましたし、ほんとに遊びの延長線でしたね。読者からファンレターが来るのが嬉しくて。とにかく、読者の方が喜んで読んでくれるってのが一番です。…Read More

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