モトクロス国際A級ライダー

島田勇耶

インタビュー

命をかけて走り続け
勇気と夢を与えたい

島田勇耶モトクロス
2014 3/12 UP
interview & text:Y-Jet

【しまだゆうや】
昭和63年大阪生まれ/モトクロス国際A級ライダー
【所属チーム】TeamSRMマウンテンライダース
【レース車両】SUZUKI/RM-Z250
モトクロスライダーとして注目され、将来を期待されていたが、19歳の時に難病指定症例である「微小変化型ネフローゼ症候群」と診断される。しかし夢を諦めず、病気と闘いながらもモトクロスライダーとして今尚、走り続けている


モトクロスを始めたきっかけを教えてください。

 4歳の時、父親に「ライダースパーク生駒」に連れて行ってもらったんですよ。あまり記憶にないんですけど、モトクロスコースで実際に走っているバイクを目の当たりにして、自分から「乗りたい!」って言ったらしいんです。
 そっから父親に50ccのバイクを買ってもらいました。最初は家族で河川敷でバーベキューした時とかに、バイクの練習してたんです。まあ遊びですよね。両親も、家にこもってゲームとかしてるよりはいいだろうって。それがいつの間にかどっぷりハマってしまいました。家族の誰もが、ここまで本気に取り組むとは思ってなかったみたいですけど(笑)。
 
島田勇耶

いつ頃からプロのモトクロスレーサーになりたいと思ったんですか?

 小学校に入学したらお決まりのように「将来の自分の夢は?」って作文を書かされるじゃないですか?その時にはもうプロのモトクロスのレーサーになりたいって書いてましたね。初レースは小学校1年生の時だったんですよ。50ccのバイクに乗っている子供たちの大会なんですけど、すごく興奮したのを覚えてます。その1年後には、その大会で優勝しました。もう完全にモトクロスに魅了されてましたね。そっからは順調にモトクロスライダーとしての道を走り続けていました。
 
モトクロス国際A級ライダー

どのような段階を踏めば、プロのモトクロスレーサーになれるのですか?

 プロと呼ばれるのは「国際A級クラス」で走れるようになってからなんですね。「国際A級クラス」で走るためには、全日本モトクロス選手権の「国際B級クラス」にまずエントリーするんです。あの当時、多い時で300台近くエントリーしてきましたよ。今は不況なんかでだいぶ少ないみたいですけど。そこで予選に勝ち残って、決勝に出場できるのが30台だけなんです。その30台に残ってシーズン1年間戦って、ランキング6位までが次の年に国際A級として走る権利を与えられるんです。全日本以外でも地方選手権で優勝すれば、次の年に「国際A級クラス」で走ることができます。かなり〝狭き門〟なんですよね。

プロ目前で、ご自身の病気である「微小変化型ネフローゼ症候群」と診断されたと伺っておりますが、もう一度レーサーとして復帰されるまでの心境と経緯をお聞かせください。

 2007年の僕が19歳の時に、プロになれることがほぼ決定していたんです。もう目の前だったんですよ。僕がチャンピオン候補の一人に挙ってるということで、バイク雑誌の編集者の方が、「取材させてほしい」って言ってきたりしてましたよ。その時はYAMAHAに所属してたんですけど、監督から「取材を受けるのはチャンピオンになってから!」と言われました(苦笑)。YAMAHAってけっこう体裁が厳しいんです(笑)。
 あの時はすごく自信に満ち溢れていて、絶対プロになれるって思っていました。周りもそう思っていましたし、次の年の契約もある程度決まってたんですよ。もちろん契約金もあれば月々の給料もありました。昔からの夢であった地点に、もうすぐ到達できるだろうと思っていたんです。あの日までは…
 
TeamSRMマウンテンライダース
 
 そんな時に大会の遠征先で全身のむくみ、吐き気、体の尋常でないだるさに襲われました。プロ昇格がかかった大事な大会なので、我慢してそのままレースに出て、地元に帰ってから病院に行きました。自分でもこれはただ事ではないなって感じてました。
 そして医師から、腎臓の難病である「微小変化型ネフローゼ症候群」と告げられました。もう少し発見が遅ければ、命に関わっていたそうです。現在の医療では完治は難しく、薬を飲んで進行を遅らせて現状維持させるのが精一杯である恐ろしい病気だそうです。
 最初は頭が混乱して、何の事だが理解できませんでした。テレビドラマとかでよく病名を告げられるシーンは見たことがありますが、まさか自分がそういう場面に出くわすとは…。母親は泣いていましたね。
 即入院となり、病院のベッドの上でずっと考えていました。「何で俺だけこんな病気にならなあかんねん!」って無性に腹が立ちました。僕は子供の頃からずっとバイク一筋だったんで、最近の若い子たちがするような遊びも全くしてないんですね。こんなことなら、もっと遊んでおけば良かったと思いました。
 でも時間が経つにつれて、少しずつ考えに変化が出てきたんです。僕にはまだやり残してることがあるんだと思い始めました。いつまで生きられるか先のことは分からないけど、何とか繋ぎ止められたこの命を、レーサーとして生きたいって強く望んでいる自分がいました。
 そんな思いを持ち始めた頃、病院にSUZUKIの「TeamSRM」の監督がお見舞いに来てくれました。「もう一度、レーサーとして復帰しないか?」と監督は言いました。僕は病気のことを説明して、「いつ再発して、体がどうなるか分からないけどそれでもいいですか?」と答えると、監督は「それでもいいので、もう一度夢を追いかけよう!」と僕のカムバックを応援してくださり、SUZUKIと契約を交わすことになりました。
 様々な葛藤の中でもう一度、夢を追いかける決意をしましたが、当たり前ですけど医者からは止められましたね。日常生活を送るのも大変なのに、レースなんか出れるわけがないって。激しい運動をやり続けると、最悪30代半ばまでしか生きれないとも言われました。でも僕の中ではもう答えが出てたので、反対を押し切って2008年の4月からレースに出場したんです。やっぱり薬の副作用とかきつくて全然、走れませんでしたけど。
 それでも頑張って3戦は走りました。本当に体がきつかったです。結果も全く出なくて、「これは今は無理だな」って実感したんです。そっから3年間は治療に専念しようって決めました。夢を諦めるんじゃなくて、夢を叶えるための期間なんだと自分に言い聞かせましたね。…Read More

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